INICIAR SESIÓN「その後、朝食を食べる。そして改めて、君へ結婚を申し込む」
「話を聞いてました!?」
雪に閉ざされた岩陰へ響いた自分の声が、思った以上に大きかったらしく、天井近くに積もっていた細かな雪がぱらぱらと落ちてきた。ミオは慌てて頭を押さえたが、目の前にいる男――昨日まで自分の腕の中で「キュゥ」と鳴いていた黒い子竜であり、人間からは血塗れの竜王と恐れられているカエル・ヴァルドレイクは、そんなことなど気にも留めず、どうして自分が叱られているのか分からないという顔をしている。
その顔がまた、腹立たしいほど整っていた。
人間の姿になれば二十代後半ほどに見えるものの、実際には二百年以上を生きているらしく、長い黒髪は夜そのものを糸にしたような艶を持ち、黄金の瞳は感情を読み取りにくいほど鮮烈だった。肩から胸元へ続く身体には無駄な肉がなく、細身に見えて鍛え抜かれていることが一目で分かるのだが、現在その身体を隠しているものは、ミオが慌てて押しつけた毛布一枚だけである。
どうして自分は、婚約破棄された翌朝から裸の竜王と結婚について話し合っているのだろう。
昨日までの人生を振り返っても、どこで道を間違えればこうなるのか分からない。
「とにかく、結婚については今すぐ忘れてください。私は昨日婚約破棄されたばかりですし、あなたとは名前を知ってからまだ十分も経っていませんし、それ以前に、あなたのことは昨日まで手のひらサイズの竜だと思っていたんです。そんな相手から朝起きてすぐ求婚されて、『はい、喜んで』と答える女がいたら、むしろそちらのほうが心配になります」
「しかし昨夜、君は私を抱いて眠った」
「その言い方をやめてください!」
「事実だろう」
「事実だから余計に駄目なんです! あなたは子竜の姿だったでしょう。あれを男女の意味で抱いたことにされたら、私は一生立ち直れません」
カエルは首を傾げた。
昨夜、小さな竜の姿で同じように首を傾げていたのを思い出してしまい、ミオは頭が痛くなった。
「人間は、同じ寝床で夜を過ごした男女が婚姻することを重視すると聞いたことがある」
「どこで聞いたんですか、そんな中途半端な知識」
「昔、人間の貴族と交渉したときだ。娘が男と一夜を共にすれば名誉に関わるので、責任を取って婚姻せよと言っていた」
「二百年生きている人の恋愛知識が、その一件だけなんですか?」
「必要がなかった」
あまりにも堂々と言われ、ミオは言葉に詰まった。
「……好きな方がいたことも?」
「ない」
「恋人は?」
「必要性を感じたことがない」
「婚約者くらいはいたでしょう。あなた、王様なんですよね?」
「十七度ほど候補が持ち込まれた」
「結構あるじゃないですか」
「すべて断った」
「どうしてですか」
「面倒だった」
ミオはしばらく無言で彼を見た。
カエルも無言で見返してくる。
「今、私はその『面倒だった結婚』を申し込まれているわけですか?」
「ああ」
「全然うれしくありません」
「なぜだ?」
「なぜでしょうね!」
カエルは本気で分からないらしい。
この人は戦えば強いのだろう。王としても有能なのかもしれない。けれど男女関係に限れば、王太子アドリアンよりさらに面倒な相手なのではないかと、ミオは早くも不安になってきた。
もっとも、アドリアンには三年間も気持ちを言葉にしてもらえなかったのに対し、この竜王は出会って一晩で「君を手放したくない」と言っているのだから、極端にもほどがある。
「まず服です」
ミオは現実的な問題から片づけることにした。
「話はそれからです。私の荷物に男性用の服なんてありませんから、何とかしてください。魔法で出せたりしないんですか?」
「可能だ」
「できるんですか!? だったら最初からやってください!」
「君が動くなと言った」
「裸のまま動くなという意味です!」
「人間語は難しいな」
「言語の問題にしないでください」
カエルが片手を上げると、その指先から黒金の光が広がった。
一瞬後には、先ほどまで何も身につけていなかった身体が、黒を基調とした服に覆われている。
丈の長い上衣には銀糸で竜を思わせる文様が刺繍され、腰には細身の剣が下がっていた。肩には黒い外套があり、留め具には深紅の宝石が使われている。
さっきまで毛布一枚だった男とは思えない。
王という肩書きが急に現実味を帯びた。
ミオは思わず見入ってしまった。
「これでいいか」
「あ、はい。ずいぶん立派ですね」
「王として他国へ出るときの正装だ」
「朝食を食べるだけなのに正装する必要あります?」
「君が服を着ろと言った」
「普通の服でいいんですよ!」
「人間は注文が多い」
「私を人類代表みたいに扱わないでください」
言いながらも、ミオは少し笑ってしまった。
変な人だった。
いや、人ではなく竜なのだが、それでも思っていた竜王像とはあまりにも違う。
人間王国で聞かされていたカエル・ヴァルドレイクは、笑うことも慈悲を見せることもなく、機嫌を損ねれば国一つを焼き払うような恐ろしい王だった。
その人物と、昨夜スープの器に前足でしがみついていた黒い子竜が、どうしても頭の中で一致しない。
「一つ、聞いてもいいですか」
「答えられることなら」
「あなたは、どうしてあんなところで倒れていたんですか。翼の傷、普通の怪我じゃありませんよね」
カエルの表情がわずかに変わった。
今までのどこか人間離れした無頓着さが消え、一瞬だけ鋭いものが黄金の瞳に宿る。
「襲撃を受けた」
「誰に?」
「まだ分からない。ただし、私を殺せると考える程度には愚かで、私の力を一時的に封じられる程度には準備をしていた者たちだ」
さらりと言われた内容が物騒すぎた。
「……大丈夫なんですか」
「生きている」
「そういう意味ではなくて、まだ追手が来る可能性があるんじゃないですか?」
「あるだろうな」
「あるんですか!?」
ミオは立ち上がりかけ、岩壁へ頭をぶつけそうになった。
「だったら悠長に結婚の話をしている場合じゃないでしょう。ここを離れないと。あなたが狙われているなら、私まで巻き込まれますよね?」
カエルはミオの顔を見て、それから何でもないことのように答えた。
「君を巻き込ませるつもりはない」
「昨日まで瀕死だった人に言われても説得力がありません」
「昨日は特殊だった。今なら問題ない」
「本当に?」
「ああ」
「だったら、ここを出て早く自分の国へ帰ってください」
「君も来い」
あまりにも即答だった。
「……どうしてそうなるんですか」
「君をここへ置いていけない」
「私は町へ向かいます。天候が回復すれば二日くらいだと聞きました」
「北の街道を徒歩で?」
「そのつもりでした」
「死ぬぞ」
「朝から縁起でもないことを言わないでください」
「事実だ。この辺りは昨日から風雪竜巻の兆候がある。今日の夕方には街道そのものが埋まる。さらに北狼の群れが移動を始めている」
ミオの顔から笑いが消えた。
「……昨日、関所の騎士はそんなこと言ってませんでした」
「人間の関所からでは分からないのだろう。空気の魔力を読めば分かる」
昨日、騎士は「急いだほうがいい」とだけ言った。
本当に知らなかったのだろうか。
あるいは知っていたけれど、命令上、国境の外へ出す以外に選択肢がなかったのか。
どちらにしても、今さら怒っても仕方がない。
「では、私が向かう予定だった町は?」
「ここから西南西にある人間の交易町なら、おそらく今日中に門を閉じる」
「……そんな」
「さらに君は道を間違えている」
「はい?」
「街道は昨夜の雪で途中から分岐が見えなくなっている。君が進んでいた方向をそのまま行けば、町ではなく黒樹の森へ入る」
「黒樹の森って、魔物の巣じゃないですか!」
「そうだ」
「昨日の騎士さん!」
思わず遠い関所の方向へ叫びたくなった。
もっとも、雪の中をかなり歩いてきているので声など届くはずもない。
ミオは両手で顔を覆った。
王都から追放され、国境へ運ばれ、雪原へ放り出され、道まで間違えていた。
どうして昨日から自分の人生は、一段ずつではなく階段を転げ落ちるように悪化していくのだろう。
「ですから結婚してください、という話なら断りますよ」
顔を上げる前に釘を刺した。
カエルが少し黙った。
「読まれたか」
「分かりやすすぎます」
「ならば言い方を変える。私の国へ来ないか」
「……それは、結婚とは別に?」
「ああ」
初めてまともな選択肢が出てきた。
ミオは慎重に聞いた。
「どういう立場で?」
「客人としてでもいい。君が望むなら、料理人でも薬師でも構わない。部屋と食事、必要な金銭はこちらで用意する」
「見返りは?」
「昨夜のスープを、もう一度作ってほしい」
意外なほど小さな要求だった。
「それだけ?」
「最初はな」
「最初は、って言いましたね」
カエルは視線を逸らさなかった。
「君の能力について知りたい」
ミオの心臓が、少しだけ強く打った。
「……能力?」
「昨日、スープを口にした瞬間、私に掛けられている呪いが弱まった。偶然ではない」
ミオは黙った。
自分の《聖卓》には、軽い毒や呪いを弱める作用がある。
けれど、人間王国の神官たちからは「日常生活に使える程度」と評価されていた。実際、強力な呪いを完全に解いたことは一度もない。
「あなたの呪いって、そんなに強いものなんですか」
「ああ。少なくとも人間の高位聖職者が束になっても解除できない程度には」
「それが私の料理で?」
「弱まった」
「でも、私は戦えない役立たず聖女ですよ」
言った瞬間、自分でも驚いた。
あまりにも自然に口から出てしまったからだ。
カエルが眉を寄せた。
「誰がそう言った」
「……いろいろな人です」
「名前は?」
「どうしてですか」
「覚えておく」
「何のために?」
「今後、私の国へ入れない」
「それくらいで済むならまだ平和ですね」
「必要なら殺す」
「済んでません!」
ミオは思わず身を乗り出した。
「駄目です。絶対に駄目ですからね。役立たずと言われたくらいで人を殺さないでください!」
「君は怒らないのか」
「腹は立ちます。でも殺したいわけじゃありません。せいぜい、嫌いな食べ物が夕食に三日続けばいいとか、靴の中に小石が入ればいいとか、そのくらいです」
「随分と穏当だな」
「普通はそうなんです」
カエルは本当に不思議そうだった。
この人の国では嫌いな相手をすぐ殺すのだろうか、と考えると、ついていって大丈夫なのかという不安が急激に大きくなる。
「ところで、あなたの国は人間を嫌っているんですよね」
「嫌っている者は多い」
「ですよね」
「だが私が客人と宣言すれば、少なくとも公には手を出さない」
「公には、という言い方が怖いです」
「裏で陰口を言う者まで黙らせることはできない」
意外だった。
「……そこは殺さないんですね」
「陰口だけで民を殺していたら国がなくなる」
「その辺りの感覚はまともなんですね」
「君は私を何だと思っている」
「さっき『必要なら殺す』と言った竜王です」
カエルは反論しなかった。
どうやら自覚はあるらしい。
ミオは膝を抱えるように座り直した。
行く場所がない。
それが一番大きかった。
昨日まで王都に残って働くつもりだったのに、それすら許されなかった。
人間王国へ戻れば、追放命令に逆らったことになる。
交易町へ行こうにも、今日中に門が閉まり、道も分からない。
ならば、少なくとも目の前の竜王についていけば、生き延びられる可能性は高い。
だが、その先にあるのは人間を嫌う魔物の国である。
「すぐには決められません」
「なぜだ」
「怖いからです」
カエルが黙った。
ミオは少し言いにくそうに続けた。
「あなたのことも、あなたの国のことも、私はほとんど知りません。昨日までは、人間を焼き殺す血塗れの竜王だと教えられていました。もちろん、実際に会ったあなたが、私をいきなり食べたりする人ではないというのは何となく分かりましたけど」
「人間は食わない」
「そこは安心しました」
「昔、戦場で噛み砕いたことはあるが」
「安心を返してください」
「飲み込んではいない」
「そういう問題じゃありません」
ひどい会話なのに、また笑いそうになった。
自分はおかしくなってしまったのかもしれない。
昨日までなら、魔物の王と向かい合ってこんな話をするなど想像もできなかった。
「でも、本当に怖いんです」
笑いを引っ込め、ミオは言った。
「私はもう、知らない場所へ放り出されるのが怖い。一度目は日本からこの世界へ、二度目は王宮から雪原へ。次は魔物の国へ行けと言われても、はいそうですかとは言えません」
カエルは黙って聞いていた。
「三年前、この世界へ来たときも、私は何も選べませんでした。聖女になってくださいと言われて、王太子妃になってくださいと言われて、昨日は必要ないから出ていけと言われた。全部、誰かが私の人生を決めたんです。だから次くらいは、自分で決めたい」
言い切ってから、ミオは少し身構えた。
王太子に同じようなことを言えば、「国の事情を理解しろ」と返されたかもしれない。
けれどカエルは怒らなかった。
むしろ黄金の目を細め、しばらく何かを考えていた。
「分かった」
「……え?」
「君が決めるまで待つ」
あまりにも簡単に言われた。
「いいんですか?」
「君を無理に連れて行けば、私を嫌うだろう」
「まあ、たぶん」
「それは困る」
「どうしてです?」
「君の料理が食べられなくなる」
「やっぱりそこですか」
少しがっかりした自分に気づいて、ミオは慌ててその感情を追い払った。
何を期待しているのだ。
会って一晩の男である。
しかも昨日まで竜だった。
「もう一つある」
カエルが言った。
「何ですか」
「昨夜、君は私が生きていてよかったと言った」
ミオは覚えていた。
傷の手当てをしながら、確かにそう言った。
「それが?」
「私にそう言った者は、長いこといなかった」
カエルの声がわずかに低くなった。
「私が死ねば困る者はいる。王がいなくなれば国が乱れるからな。部下も民も私の生存を望むだろう。しかし、私自身が生きていてよかったと、何の利益もない人間から言われた記憶はない」
ミオは返す言葉を失った。
目の前の男が二百年を生きてきたという事実が、初めて重みを持った。
長い時間だった。
その間に、どれほどの人と出会い、別れたのだろう。
「……昨日のあなた、すごく弱ってましたから」
やっとそれだけ言った。
「見捨てたら、たぶん死んでいたでしょう?」
「ああ」
「だったら、生きていてよかったと思いますよ。竜王だからじゃなくて、あなたが昨日あそこで死なずに済んだから」
カエルはしばらく何も言わなかった。
その沈黙が、妙に長かった。
やがて彼は小さく息を吐いた。
「やはり、君を手放したくない」
「だから結婚に戻らないでください」
「ならば、どうすればいい」
「まず友人から、とかでしょうか」
カエルの表情が止まった。
「友人」
「人間の場合、相手を知るところから始めるんです。少なくとも私はそうしたいです。あなたがどんな人なのか、何が好きで何が嫌いなのか、怒るとどうなるのか、一緒に暮らして大丈夫なのか、それくらい知らないと結婚なんて考えられません」
「好きなものは、昨夜のスープ」
「食べ物以外でお願いします」
「嫌いなものは、人間の王族」
「範囲が広いですね」
「怒ると山が一つ消えることがある」
「やっぱり一緒に暮らすの怖いんですが」
「最近は減った」
「山が消える回数の話を『最近は減った』で済ませないでください」
カエルの口元が、ほんの少しだけ上がった。
笑ったのだ。
それを見たミオは、不覚にも一瞬見とれた。
怖い顔をしていると近寄りがたいのに、少し笑うだけで驚くほど印象が変わる。
その瞬間、カエルの身体が淡い黒金色の光に包まれた。
「え?」
ミオが目を細める。
光は一瞬だけ強くなり、次の瞬間には、目の前から長身の男が消えていた。
代わりに。
ぽすん。
黒い服だけが床へ落ちた。
その真ん中から、小さな黒い頭が出てくる。
「……え?」
「キュ」
昨日の子竜がいた。
ミオは何度か瞬きをした。
「どうして戻ったんですか?」
「キュゥ」
「分かりません」
子竜――カエルが、自分でも困ったように服の山から這い出してくる。
翼の傷はまだ残っている。
どうやら好きで変身したわけではなさそうだった。
「もしかして、まだ怪我のせいで人間の姿を保てないとか?」
子竜は首を横に振る。
「呪い?」
今度は少し考えてから首を傾げた。
本人にも分からないらしい。
「さっき何をしていました?」
ミオは記憶を辿った。
話をしていた。
カエルが少し笑った。
そして、自分は――。
「……もしかして、笑ったから?」
子竜が固まった。
黄金の瞳が、わずかに泳いだように見えた。
「え、本当に?」
「グル」
「今、目を逸らしましたよね」
「グルル」
「まさか感情が動くと小さくなるんですか?」
カエルは明らかに顔を背けた。
ミオは数秒耐えた。
しかし駄目だった。
「ふっ……」
「グル」
「ご、ごめんなさい。笑ったら失礼なのは分かっているんですけど……さっきまで『怒ると山が消える』とか言っていた竜王様が、ちょっと笑っただけでこれって……」
「グルルルル!」
「怒らないで、かわいいから」
子竜の身体がぴたりと止まった。
「……あ」
今の言葉はまずかったかもしれない。
カエルの鱗の隙間から、ほんのり赤い光が漏れ始めた。
「まさか」
ぽん、と小さな煙が出た。
しかしそれ以上小さくなることはできないらしい。
代わりに、子竜の鼻先から火花が飛んだ。
「熱っ! ちょっと、照れて火を吐かないでください!」
「グルルル!」
「照れてるんですね!」
「グルルルルル!」
とうとうミオは声を上げて笑った。
昨日までの自分なら、こんなふうに笑えただろうか。
婚約者の前で、腹を抱えて笑ったことなど一度もなかった気がする。
聖女らしく。
王太子妃らしく。
いつも誰かの目を気にしていた。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。でも、あなたを怖がるのが少し馬鹿らしくなりました」
子竜は不満そうに鼻を鳴らした。
「これなら町まで連れていけそうですね。荷物にも入りますし」
「グル!」
「冗談です」
笑いながら子竜を抱き上げた。
昨日と同じ大きさだった。
けれど今は、この腕の中にいる存在が二百年を生きる竜王だと知っている。
変な気分だった。
「それで、どうします? 人間に戻れます?」
「キュ……」
「戻れない?」
小さく頷いた。
「では、しばらく待ちましょうか。私も朝食を作ります。昨日の残りでいいですか?」
その瞬間、カエルの尾が元気よく動いた。
「本当に食べ物には正直ですね」
スープを温め直しながら、ミオはふと考えた。
「カエル」
子竜がこちらを見る。
初めて名前で呼んだ。
「あなたの国へ行くかどうか、朝ご飯を食べながら考えます。それから、もし行くとしても条件があります」
金色の瞳が細くなる。
「結婚はしません。少なくとも今は。私はあなたの客人として行きます。それから、自分の仕事は自分で探したい。全部養ってもらうのは嫌です」
子竜が何か言いたそうに口を開く。
「人間の姿に戻ってから反論してください」
閉じた。
「あと、私は聖女扱いされたくありません。特別な人間として祭り上げるのもなしです。料理を作ることはできますけど、それだって毎日あなた専属というのは嫌です」
カエルの耳が動いた。
明らかにそこは不満らしい。
「そんな顔をしても駄目です。私だって自分の人生があります。あなたの呪いを解くためだけに、この先ずっと生きるつもりはありません」
それだけは譲れなかった。
誰かの役に立つためだけの人生は、もう終わりにしたい。
「その代わり」
ミオは鍋を混ぜながら続けた。
「あなたが本当に困っているなら、できる範囲で協力します。昨日助けたのも、そのつもりでしたから」
カエルはじっと彼女を見ていた。
やがて、子竜の姿のまま小さく頷いた。
「交渉成立……なのかな」
ミオは笑った。
「まあ、正式な話は人間の姿に戻ってからですね」
朝食のスープを器へよそった。
カエル用の器を置くと、彼はすぐに近づいてきた。
「待ってください。まだ熱いです」
止まる。
「昨日も言いましたよね」
座る。
「お利口ですね」
カエルの目が細くなる。
「王様相手に言う言葉じゃありませんでしたね。すみません」
それでも、どこか楽しかった。
ミオは自分の器を持ち、岩陰の外を見た。
雪はまだ降っている。
昨日までいた王都とは正反対の、白く何もない世界だった。
これからどこへ行くのかも、本当は分からない。
人間ではない者たちが暮らす国。
昨日まで敵と教えられていた場所。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、不思議と昨日ほど絶望してはいなかった。
「カエル」
子竜がスープから顔を上げる。
「あなたの国って、どんなところですか?」
その問いに答えるように、子竜の黄金の瞳が少しだけ輝いた。
そして朝食を終えた頃。
岩陰の外から、低い獣の唸り声が聞こえた。
一つではない。
二つ。
三つ。
さらに増えていく。
ミオの手が止まった。
「……今の、何ですか」
カエルがゆっくり立ち上がる。
昨日までのかわいらしい子竜とは思えないほど、黄金の瞳が鋭く細められた。
雪の向こうから、巨大な狼の影が一つ、また一つと姿を現す。
黒い毛皮に氷のような青い瞳。
人間の腰ほどもある体高。
十頭どころではない。
「もしかして、さっき言っていた北狼ですか」
「グル」
「こんなに来るなんて聞いてませんよ」
外へ出ようとしたカエルを、ミオは慌てて抱き上げた。
「駄目です! 今のあなた、こんなに小さいでしょう!」
腕の中の竜王が、ひどく不満そうな顔をした。
「強いのは分かっています。でも翼だって怪我してるんです。昨日死にかけていた人が無茶しないでください」
「グルル」
「山を消せるとか言っても駄目です。今は手のひらサイズです」
その瞬間。
雪原に並んだ北狼たちが、一斉に伏せた。
ミオは息を止めた。
襲ってくるのかと思った。
違った。
二十頭を超える巨大な狼が、ミオの腕の中にいる小さな黒竜へ向かい、まるで王へ臣従する騎士のように頭を垂れている。
その群れの奥から、ひときわ大きな白銀の狼が歩み出た。
そしてミオの目の前で、白い光に包まれる。
光が消えたとき、そこには銀髪の若い男が立っていた。
狼の耳と尻尾を残したまま、彼はミオの腕の中のカエルを見て数秒硬直し、それから堪えきれないように腹を抱えた。
「陛下……っ、あなた、またその姿になってるじゃないですか。しかも今度は人間の女に抱っこされてるって、いや駄目だ、これは笑うなってほうが無理ですよ」
カエルの鼻から、凄まじい火花が散った。
「グルルルルルル!」
「痛っ、熱い! 分かりました、笑いません、笑いませんって! だから俺の前髪を燃やさないでください!」
ミオは、腕の中で本気で怒っている小さな竜王と、涙を流して笑っている銀髪の男を交互に見た。
そして思った。
どうやら、自分がこれから向かうかもしれない魔物の国は、人間王国から聞かされていたほど恐ろしい場所ではないのかもしれない。
少なくとも。
退屈する場所では、絶対になさそうだった。
第8話 竜王様、それはたぶん嫉妬です朝、ミオが目を覚ましたとき、最初に目へ入ったのは見知らぬ天井ではなく、自分の腕へしっかりと巻きついている黒い尻尾だった。「……やっぱり離してくれなかったんですね」まだ眠気の残る声で呟きながら横を向くと、昨夜の約束どおり、小さな黒竜の姿をしたカエルが寝台の端で丸くなっていた。普段なら近づけばすぐ気配を察して黄金の瞳を開く男なのに、今朝はミオが身体を動かしても起きる様子がなく、規則正しい寝息だけを立てている。二百年間、まともに眠れなかった。そう聞いてから、この寝顔を見る意味が変わってしまった。昨日までなら、ずいぶん警戒心のない竜王だと思って笑えただろう。しかし、一人では眠れず、眠ったとしても悪夢によって何度も起こされてきた男が、こうして自分の隣では朝まで眠れているのだと思うと、起こすことさえ悪いことをしている気分になる。「世界最強の竜王が、こんな無防備でいいんでしょうかね」そっと頭へ触れる。硬い鱗。二本の小さな角。昨日まで何度も撫でているので、もう触れることへの抵抗はほとんどなかった。むしろ撫でると、カエルは眠ったまま頭を少しだけミオの指へ押しつけてきた。「……犬じゃないって怒るくせに、こういうところは犬っぽいんですよね」すると。「誰が犬だ」低い声がした。「起きてたんですか!」ミオは慌てて手を引いた。カエルが片目だけ開けている。「今起きた」「でしたら聞かなかったことにしてください」「犬と言った」「聞いてるじゃないですか」「竜だ」「知っています」「最上位
第7話 私を守るためなら、竜王様は世界を敵に回す「侵入者だ! 北塔で魔法陣が発見された! 陛下をお守りしろ!」廊下の向こうから怒号と足音が重なって聞こえ、つい先ほどまで静かだった王城が一瞬で別の場所へ変わったようだった。眠りから叩き起こされたミオは寝間着の上から急いで上着を羽織ったものの、頭の半分はまだ状況を理解できていなかった。けれど、長椅子のそばで胸を押さえているカエルの姿を見れば、夢ではないことだけは嫌でも分かる。彼の首筋には、黒い蔦のような紋様が浮かんでいた。昼間にザラが確認したときは、二百年にわたって彼を蝕み続けていた呪いが明らかに薄くなっていたはずなのに、今は逆に、何かが内側から無理やり皮膚を突き破ろうとしているように濃く脈打っている。「カエル、手を離してください。ザラを呼ばないと、本当にまずいでしょう」「呼ぶ必要はない。あいつなら今頃、魔法陣の場所へ向かっている」「でも、あなたの呪いが急に悪化したんですよ。ここに一人で置いていくわけには――」「一人ではない」カエルが低い声で言った。「君がいる」「だからこそ困ってるんです。私は呪いを治す専門家じゃありませんし、何か起きても戦えません。せめて治療のできる人を呼ばせてください」ミオが再び扉へ向かおうとすると、カエルは手首を掴んだまま離さなかった。強い力ではない。逃げようと思えば振りほどける程度だった。けれどその手は、先ほどからわずかに震えている。「……カエル」「外へ出るな」「どうしてですか」「北塔の魔法陣が、私の呪いを刺激するためだけのものとは限らない」「つまり?」カエルが答えるより先に、扉が激しく叩かれた。
第6話 竜王様が二百年ぶりに「おいしい」と言いました「……あの、ミオ様。夕食のお着替えをお持ちした侍女なのですが」扉の向こうから遠慮がちな声が聞こえた瞬間、ミオはベッドの上で完全に固まった。つい先ほどまで、カエルが自分がまだ部屋にいるか確かめるため何度も扉を叩きに来ていたせいで、三度目も彼だと思い込んで、「一年契約の初日に逃げたりしませんからね」と大声で返してしまったのだ。よりによって、これから世話になる城の侍女へ。ミオは両手で顔を覆い、しばらくそのまま動けなかった。「……今の、忘れていただくことは可能でしょうか」「努力はいたします」即答ではなかった。それが余計につらい。「その返事だと絶対に覚えていますよね」「申し訳ございません。少しだけ面白かったもので」「正直ですね……。どうぞ、お入りください」返事をすると、扉が静かに開いた。入ってきたのは、ミオと同じか少し年下に見える女性だった。淡い灰色の髪を肩の辺りで切り揃え、頭の上には猫に似た三角形の耳がある。腰の後ろには同じ色の長い尻尾があり、白と黒を基調とした侍女服の裾からゆっくり左右へ揺れていた。両腕には大きな箱を抱えている。「失礼いたします。侍女のリュナと申します。本日から、ひとまずミオ様のお世話を担当するよう侍従長より申しつかりました」「ひとまず、ということは、まだ正式ではないんですか?」「その……」リュナの耳が少しだけ伏せた。いかにも言いにくそうな反応だった。ミオはすぐに察した。「人間の世話をしたくない方もいるんですね」リュナの顔が強張った。
第5話 人間嫌いの魔物たちに歓迎されませんでした「陛下! 三日も行方不明になったと思ったら、何で人間の女を連れて帰ってきて、しかも結婚までしてるんですか! 説明する順番というものがあるでしょう!」北門を抜けるより先に響き渡った紫髪の女性の怒声に、ミオは思わず肩をすくめたが、怒鳴られている当人であるカエルは少しも動じず、むしろ面倒そうに目を細めただけだった。「結婚はまだしていない」「そこを訂正している場合ですか! 私が問題にしているのは、陛下が三日間も連絡を絶ったうえ、戻ってきた途端に国境門のど真ん中で『この女は私の婚姻契約者だ』なんて宣言したことです。おかげで伝令鳥が王都へ飛ぶより先に、街の噂好きのおばさんたちが商業魔信で話を広めていますよ。たぶん今頃、城では『陛下が人間の美女に一目惚れして攫ってきた』とか、『二百年守り続けた純潔をとうとう捨てるらしい』とか、私が聞きたくもない話まで増殖してますからね!」「後半は誰が言った」「そこ気になります!?」ミオは思わずカエルの横顔を見た。彼は本当に後半の情報源だけが気になっているらしい。そのあまりにも真剣な表情がおかしくて、こんな状況でなければ笑っていたかもしれないが、今はそれどころではなかった。城壁の上にも、開かれた門の向こうにも、たくさんの視線がある。獣の耳を持つ者、額から角を生やした者、翼を持つ者、肌が青い者、ミオより頭二つ分以上も大きな巨躯の者。人間の王都では一度も見たことのない種族ばかりが、突然現れた「人間の女」を遠巻きに見つめている。好奇心だけならよかった。けれど、明らかな敵意も混じっていた。「人間だってよ」「本当に陛下の妻になるのか?」「ふざけるな。人間に何人殺されたと思っている」「聖女だって聞いたぞ。また神殿の手先じゃないのか」小さな囁きだからこそ、よく聞こえた。
第4話 一年間だけの妻なら、寝室は絶対に別です白銀の髪を持つ青年が腹を抱えて笑い続ける一方で、ミオの腕に収まっている小さな黒竜は本気で機嫌を損ねたらしく、鼻先から何度も火花を散らしていた。「いやあ、本当に申し訳ありません、陛下。笑ってはいけないとは分かっているんですが、三日前に城を出るときは『私が戻るまで評議会を動かすな』なんて、ものすごく怖い顔をしていた方が、人間の女性の腕の中で毛布に包まれているんですよ。これを見て平静でいられるほど、俺は長生きしていませんって」「グルルルルル……」「分かりました、分かりました。もう笑いませんから、その火をこちらへ向けるのだけはやめてください。今月二度目なんですよ、前髪を燃やされるの」青年はそう言いながらも口元を押さえており、どう見ても反省している様子はない。ミオは腕の中のカエルと青年を交互に見比べてから、恐る恐る尋ねた。「あの……お知り合いなんですよね?」「もちろんです。むしろ知らない男が陛下にこんな口を利いていたら、今頃ここに首が転がっていると思いますよ」「朝から怖い説明をしないでください」「これは失礼しました。人間の女性に自己紹介するときは、もう少し柔らかく言わないといけませんね。俺はレグル・ファーン。北方狼騎士団の団長をしています。そこの気難しい黒竜――失礼、我らが尊き竜王カエル・ヴァルドレイク陛下の部下です」青年――レグルは胸に手を当て、芝居がかった礼をした。銀色の狼耳までぴんと立てているので、礼儀正しいのかふざけているのか判断しにくい。「ミオです。相沢美緒。この世界ではミオと呼ばれています」「ミオ殿。なるほど、あなたが」レグルが意味ありげに目を細めた。「……何ですか、その『なるほど』は」「いえ。俺たちは昨夜から陛下を探し
第3話 竜王様、求婚が雑すぎます「その後、朝食を食べる。そして改めて、君へ結婚を申し込む」「話を聞いてました!?」雪に閉ざされた岩陰へ響いた自分の声が、思った以上に大きかったらしく、天井近くに積もっていた細かな雪がぱらぱらと落ちてきた。ミオは慌てて頭を押さえたが、目の前にいる男――昨日まで自分の腕の中で「キュゥ」と鳴いていた黒い子竜であり、人間からは血塗れの竜王と恐れられているカエル・ヴァルドレイクは、そんなことなど気にも留めず、どうして自分が叱られているのか分からないという顔をしている。その顔がまた、腹立たしいほど整っていた。人間の姿になれば二十代後半ほどに見えるものの、実際には二百年以上を生きているらしく、長い黒髪は夜そのものを糸にしたような艶を持ち、黄金の瞳は感情を読み取りにくいほど鮮烈だった。肩から胸元へ続く身体には無駄な肉がなく、細身に見えて鍛え抜かれていることが一目で分かるのだが、現在その身体を隠しているものは、ミオが慌てて押しつけた毛布一枚だけである。どうして自分は、婚約破棄された翌朝から裸の竜王と結婚について話し合っているのだろう。昨日までの人生を振り返っても、どこで道を間違えればこうなるのか分からない。「とにかく、結婚については今すぐ忘れてください。私は昨日婚約破棄されたばかりですし、あなたとは名前を知ってからまだ十分も経っていませんし、それ以前に、あなたのことは昨日まで手のひらサイズの竜だと思っていたんです。そんな相手から朝起きてすぐ求婚されて、『はい、喜んで』と答える女がいたら、むしろそちらのほうが心配になります」「しかし昨夜、君は私を抱いて眠った」「その言い方をやめてください!」「事実だろう」「事実だから余計に駄目なんです! あなたは子竜の姿だったでしょう。あれを男女の意味で抱いたことにされたら、私は一生立ち直れません」カエルは首を傾げた。昨夜、小さな竜の姿で同じように首を傾げていたのを思い出して







