Masuk「その後、朝食を食べる。そして改めて、君へ結婚を申し込む」
「話を聞いてました!?」
雪に閉ざされた岩陰へ響いた自分の声が、思った以上に大きかったらしく、天井近くに積もっていた細かな雪がぱらぱらと落ちてきた。ミオは慌てて頭を押さえたが、目の前にいる男――昨日まで自分の腕の中で「キュゥ」と鳴いていた黒い子竜であり、人間からは血塗れの竜王と恐れられているカエル・ヴァルドレイクは、そんなことなど気にも留めず、どうして自分が叱られているのか分からないという顔をしている。
その顔がまた、腹立たしいほど整っていた。
人間の姿になれば二十代後半ほどに見えるものの、実際には二百年以上を生きているらしく、長い黒髪は夜そのものを糸にしたような艶を持ち、黄金の瞳は感情を読み取りにくいほど鮮烈だった。肩から胸元へ続く身体には無駄な肉がなく、細身に見えて鍛え抜かれていることが一目で分かるのだが、現在その身体を隠しているものは、ミオが慌てて押しつけた毛布一枚だけである。
どうして自分は、婚約破棄された翌朝から裸の竜王と結婚について話し合っているのだろう。
昨日までの人生を振り返っても、どこで道を間違えればこうなるのか分からない。
「とにかく、結婚については今すぐ忘れてください。私は昨日婚約破棄されたばかりですし、あなたとは名前を知ってからまだ十分も経っていませんし、それ以前に、あなたのことは昨日まで手のひらサイズの竜だと思っていたんです。そんな相手から朝起きてすぐ求婚されて、『はい、喜んで』と答える女がいたら、むしろそちらのほうが心配になります」
「しかし昨夜、君は私を抱いて眠った」
「その言い方をやめてください!」
「事実だろう」
「事実だから余計に駄目なんです! あなたは子竜の姿だったでしょう。あれを男女の意味で抱いたことにされたら、私は一生立ち直れません」
カエルは首を傾げた。
昨夜、小さな竜の姿で同じように首を傾げていたのを思い出してしまい、ミオは頭が痛くなった。
「人間は、同じ寝床で夜を過ごした男女が婚姻することを重視すると聞いたことがある」
「どこで聞いたんですか、そんな中途半端な知識」
「昔、人間の貴族と交渉したときだ。娘が男と一夜を共にすれば名誉に関わるので、責任を取って婚姻せよと言っていた」
「二百年生きている人の恋愛知識が、その一件だけなんですか?」
「必要がなかった」
あまりにも堂々と言われ、ミオは言葉に詰まった。
「……好きな方がいたことも?」
「ない」
「恋人は?」
「必要性を感じたことがない」
「婚約者くらいはいたでしょう。あなた、王様なんですよね?」
「十七度ほど候補が持ち込まれた」
「結構あるじゃないですか」
「すべて断った」
「どうしてですか」
「面倒だった」
ミオはしばらく無言で彼を見た。
カエルも無言で見返してくる。
「今、私はその『面倒だった結婚』を申し込まれているわけですか?」
「ああ」
「全然うれしくありません」
「なぜだ?」
「なぜでしょうね!」
カエルは本気で分からないらしい。
この人は戦えば強いのだろう。王としても有能なのかもしれない。けれど男女関係に限れば、王太子アドリアンよりさらに面倒な相手なのではないかと、ミオは早くも不安になってきた。
もっとも、アドリアンには三年間も気持ちを言葉にしてもらえなかったのに対し、この竜王は出会って一晩で「君を手放したくない」と言っているのだから、極端にもほどがある。
「まず服です」
ミオは現実的な問題から片づけることにした。
「話はそれからです。私の荷物に男性用の服なんてありませんから、何とかしてください。魔法で出せたりしないんですか?」
「可能だ」
「できるんですか!? だったら最初からやってください!」
「君が動くなと言った」
「裸のまま動くなという意味です!」
「人間語は難しいな」
「言語の問題にしないでください」
カエルが片手を上げると、その指先から黒金の光が広がった。
一瞬後には、先ほどまで何も身につけていなかった身体が、黒を基調とした服に覆われている。
丈の長い上衣には銀糸で竜を思わせる文様が刺繍され、腰には細身の剣が下がっていた。肩には黒い外套があり、留め具には深紅の宝石が使われている。
さっきまで毛布一枚だった男とは思えない。
王という肩書きが急に現実味を帯びた。
ミオは思わず見入ってしまった。
「これでいいか」
「あ、はい。ずいぶん立派ですね」
「王として他国へ出るときの正装だ」
「朝食を食べるだけなのに正装する必要あります?」
「君が服を着ろと言った」
「普通の服でいいんですよ!」
「人間は注文が多い」
「私を人類代表みたいに扱わないでください」
言いながらも、ミオは少し笑ってしまった。
変な人だった。
いや、人ではなく竜なのだが、それでも思っていた竜王像とはあまりにも違う。
人間王国で聞かされていたカエル・ヴァルドレイクは、笑うことも慈悲を見せることもなく、機嫌を損ねれば国一つを焼き払うような恐ろしい王だった。
その人物と、昨夜スープの器に前足でしがみついていた黒い子竜が、どうしても頭の中で一致しない。
「一つ、聞いてもいいですか」
「答えられることなら」
「あなたは、どうしてあんなところで倒れていたんですか。翼の傷、普通の怪我じゃありませんよね」
カエルの表情がわずかに変わった。
今までのどこか人間離れした無頓着さが消え、一瞬だけ鋭いものが黄金の瞳に宿る。
「襲撃を受けた」
「誰に?」
「まだ分からない。ただし、私を殺せると考える程度には愚かで、私の力を一時的に封じられる程度には準備をしていた者たちだ」
さらりと言われた内容が物騒すぎた。
「……大丈夫なんですか」
「生きている」
「そういう意味ではなくて、まだ追手が来る可能性があるんじゃないですか?」
「あるだろうな」
「あるんですか!?」
ミオは立ち上がりかけ、岩壁へ頭をぶつけそうになった。
「だったら悠長に結婚の話をしている場合じゃないでしょう。ここを離れないと。あなたが狙われているなら、私まで巻き込まれますよね?」
カエルはミオの顔を見て、それから何でもないことのように答えた。
「君を巻き込ませるつもりはない」
「昨日まで瀕死だった人に言われても説得力がありません」
「昨日は特殊だった。今なら問題ない」
「本当に?」
「ああ」
「だったら、ここを出て早く自分の国へ帰ってください」
「君も来い」
あまりにも即答だった。
「……どうしてそうなるんですか」
「君をここへ置いていけない」
「私は町へ向かいます。天候が回復すれば二日くらいだと聞きました」
「北の街道を徒歩で?」
「そのつもりでした」
「死ぬぞ」
「朝から縁起でもないことを言わないでください」
「事実だ。この辺りは昨日から風雪竜巻の兆候がある。今日の夕方には街道そのものが埋まる。さらに北狼の群れが移動を始めている」
ミオの顔から笑いが消えた。
「……昨日、関所の騎士はそんなこと言ってませんでした」
「人間の関所からでは分からないのだろう。空気の魔力を読めば分かる」
昨日、騎士は「急いだほうがいい」とだけ言った。
本当に知らなかったのだろうか。
あるいは知っていたけれど、命令上、国境の外へ出す以外に選択肢がなかったのか。
どちらにしても、今さら怒っても仕方がない。
「では、私が向かう予定だった町は?」
「ここから西南西にある人間の交易町なら、おそらく今日中に門を閉じる」
「……そんな」
「さらに君は道を間違えている」
「はい?」
「街道は昨夜の雪で途中から分岐が見えなくなっている。君が進んでいた方向をそのまま行けば、町ではなく黒樹の森へ入る」
「黒樹の森って、魔物の巣じゃないですか!」
「そうだ」
「昨日の騎士さん!」
思わず遠い関所の方向へ叫びたくなった。
もっとも、雪の中をかなり歩いてきているので声など届くはずもない。
ミオは両手で顔を覆った。
王都から追放され、国境へ運ばれ、雪原へ放り出され、道まで間違えていた。
どうして昨日から自分の人生は、一段ずつではなく階段を転げ落ちるように悪化していくのだろう。
「ですから結婚してください、という話なら断りますよ」
顔を上げる前に釘を刺した。
カエルが少し黙った。
「読まれたか」
「分かりやすすぎます」
「ならば言い方を変える。私の国へ来ないか」
「……それは、結婚とは別に?」
「ああ」
初めてまともな選択肢が出てきた。
ミオは慎重に聞いた。
「どういう立場で?」
「客人としてでもいい。君が望むなら、料理人でも薬師でも構わない。部屋と食事、必要な金銭はこちらで用意する」
「見返りは?」
「昨夜のスープを、もう一度作ってほしい」
意外なほど小さな要求だった。
「それだけ?」
「最初はな」
「最初は、って言いましたね」
カエルは視線を逸らさなかった。
「君の能力について知りたい」
ミオの心臓が、少しだけ強く打った。
「……能力?」
「昨日、スープを口にした瞬間、私に掛けられている呪いが弱まった。偶然ではない」
ミオは黙った。
自分の《聖卓》には、軽い毒や呪いを弱める作用がある。
けれど、人間王国の神官たちからは「日常生活に使える程度」と評価されていた。実際、強力な呪いを完全に解いたことは一度もない。
「あなたの呪いって、そんなに強いものなんですか」
「ああ。少なくとも人間の高位聖職者が束になっても解除できない程度には」
「それが私の料理で?」
「弱まった」
「でも、私は戦えない役立たず聖女ですよ」
言った瞬間、自分でも驚いた。
あまりにも自然に口から出てしまったからだ。
カエルが眉を寄せた。
「誰がそう言った」
「……いろいろな人です」
「名前は?」
「どうしてですか」
「覚えておく」
「何のために?」
「今後、私の国へ入れない」
「それくらいで済むならまだ平和ですね」
「必要なら殺す」
「済んでません!」
ミオは思わず身を乗り出した。
「駄目です。絶対に駄目ですからね。役立たずと言われたくらいで人を殺さないでください!」
「君は怒らないのか」
「腹は立ちます。でも殺したいわけじゃありません。せいぜい、嫌いな食べ物が夕食に三日続けばいいとか、靴の中に小石が入ればいいとか、そのくらいです」
「随分と穏当だな」
「普通はそうなんです」
カエルは本当に不思議そうだった。
この人の国では嫌いな相手をすぐ殺すのだろうか、と考えると、ついていって大丈夫なのかという不安が急激に大きくなる。
「ところで、あなたの国は人間を嫌っているんですよね」
「嫌っている者は多い」
「ですよね」
「だが私が客人と宣言すれば、少なくとも公には手を出さない」
「公には、という言い方が怖いです」
「裏で陰口を言う者まで黙らせることはできない」
意外だった。
「……そこは殺さないんですね」
「陰口だけで民を殺していたら国がなくなる」
「その辺りの感覚はまともなんですね」
「君は私を何だと思っている」
「さっき『必要なら殺す』と言った竜王です」
カエルは反論しなかった。
どうやら自覚はあるらしい。
ミオは膝を抱えるように座り直した。
行く場所がない。
それが一番大きかった。
昨日まで王都に残って働くつもりだったのに、それすら許されなかった。
人間王国へ戻れば、追放命令に逆らったことになる。
交易町へ行こうにも、今日中に門が閉まり、道も分からない。
ならば、少なくとも目の前の竜王についていけば、生き延びられる可能性は高い。
だが、その先にあるのは人間を嫌う魔物の国である。
「すぐには決められません」
「なぜだ」
「怖いからです」
カエルが黙った。
ミオは少し言いにくそうに続けた。
「あなたのことも、あなたの国のことも、私はほとんど知りません。昨日までは、人間を焼き殺す血塗れの竜王だと教えられていました。もちろん、実際に会ったあなたが、私をいきなり食べたりする人ではないというのは何となく分かりましたけど」
「人間は食わない」
「そこは安心しました」
「昔、戦場で噛み砕いたことはあるが」
「安心を返してください」
「飲み込んではいない」
「そういう問題じゃありません」
ひどい会話なのに、また笑いそうになった。
自分はおかしくなってしまったのかもしれない。
昨日までなら、魔物の王と向かい合ってこんな話をするなど想像もできなかった。
「でも、本当に怖いんです」
笑いを引っ込め、ミオは言った。
「私はもう、知らない場所へ放り出されるのが怖い。一度目は日本からこの世界へ、二度目は王宮から雪原へ。次は魔物の国へ行けと言われても、はいそうですかとは言えません」
カエルは黙って聞いていた。
「三年前、この世界へ来たときも、私は何も選べませんでした。聖女になってくださいと言われて、王太子妃になってくださいと言われて、昨日は必要ないから出ていけと言われた。全部、誰かが私の人生を決めたんです。だから次くらいは、自分で決めたい」
言い切ってから、ミオは少し身構えた。
王太子に同じようなことを言えば、「国の事情を理解しろ」と返されたかもしれない。
けれどカエルは怒らなかった。
むしろ黄金の目を細め、しばらく何かを考えていた。
「分かった」
「……え?」
「君が決めるまで待つ」
あまりにも簡単に言われた。
「いいんですか?」
「君を無理に連れて行けば、私を嫌うだろう」
「まあ、たぶん」
「それは困る」
「どうしてです?」
「君の料理が食べられなくなる」
「やっぱりそこですか」
少しがっかりした自分に気づいて、ミオは慌ててその感情を追い払った。
何を期待しているのだ。
会って一晩の男である。
しかも昨日まで竜だった。
「もう一つある」
カエルが言った。
「何ですか」
「昨夜、君は私が生きていてよかったと言った」
ミオは覚えていた。
傷の手当てをしながら、確かにそう言った。
「それが?」
「私にそう言った者は、長いこといなかった」
カエルの声がわずかに低くなった。
「私が死ねば困る者はいる。王がいなくなれば国が乱れるからな。部下も民も私の生存を望むだろう。しかし、私自身が生きていてよかったと、何の利益もない人間から言われた記憶はない」
ミオは返す言葉を失った。
目の前の男が二百年を生きてきたという事実が、初めて重みを持った。
長い時間だった。
その間に、どれほどの人と出会い、別れたのだろう。
「……昨日のあなた、すごく弱ってましたから」
やっとそれだけ言った。
「見捨てたら、たぶん死んでいたでしょう?」
「ああ」
「だったら、生きていてよかったと思いますよ。竜王だからじゃなくて、あなたが昨日あそこで死なずに済んだから」
カエルはしばらく何も言わなかった。
その沈黙が、妙に長かった。
やがて彼は小さく息を吐いた。
「やはり、君を手放したくない」
「だから結婚に戻らないでください」
「ならば、どうすればいい」
「まず友人から、とかでしょうか」
カエルの表情が止まった。
「友人」
「人間の場合、相手を知るところから始めるんです。少なくとも私はそうしたいです。あなたがどんな人なのか、何が好きで何が嫌いなのか、怒るとどうなるのか、一緒に暮らして大丈夫なのか、それくらい知らないと結婚なんて考えられません」
「好きなものは、昨夜のスープ」
「食べ物以外でお願いします」
「嫌いなものは、人間の王族」
「範囲が広いですね」
「怒ると山が一つ消えることがある」
「やっぱり一緒に暮らすの怖いんですが」
「最近は減った」
「山が消える回数の話を『最近は減った』で済ませないでください」
カエルの口元が、ほんの少しだけ上がった。
笑ったのだ。
それを見たミオは、不覚にも一瞬見とれた。
怖い顔をしていると近寄りがたいのに、少し笑うだけで驚くほど印象が変わる。
その瞬間、カエルの身体が淡い黒金色の光に包まれた。
「え?」
ミオが目を細める。
光は一瞬だけ強くなり、次の瞬間には、目の前から長身の男が消えていた。
代わりに。
ぽすん。
黒い服だけが床へ落ちた。
その真ん中から、小さな黒い頭が出てくる。
「……え?」
「キュ」
昨日の子竜がいた。
ミオは何度か瞬きをした。
「どうして戻ったんですか?」
「キュゥ」
「分かりません」
子竜――カエルが、自分でも困ったように服の山から這い出してくる。
翼の傷はまだ残っている。
どうやら好きで変身したわけではなさそうだった。
「もしかして、まだ怪我のせいで人間の姿を保てないとか?」
子竜は首を横に振る。
「呪い?」
今度は少し考えてから首を傾げた。
本人にも分からないらしい。
「さっき何をしていました?」
ミオは記憶を辿った。
話をしていた。
カエルが少し笑った。
そして、自分は――。
「……もしかして、笑ったから?」
子竜が固まった。
黄金の瞳が、わずかに泳いだように見えた。
「え、本当に?」
「グル」
「今、目を逸らしましたよね」
「グルル」
「まさか感情が動くと小さくなるんですか?」
カエルは明らかに顔を背けた。
ミオは数秒耐えた。
しかし駄目だった。
「ふっ……」
「グル」
「ご、ごめんなさい。笑ったら失礼なのは分かっているんですけど……さっきまで『怒ると山が消える』とか言っていた竜王様が、ちょっと笑っただけでこれって……」
「グルルルル!」
「怒らないで、かわいいから」
子竜の身体がぴたりと止まった。
「……あ」
今の言葉はまずかったかもしれない。
カエルの鱗の隙間から、ほんのり赤い光が漏れ始めた。
「まさか」
ぽん、と小さな煙が出た。
しかしそれ以上小さくなることはできないらしい。
代わりに、子竜の鼻先から火花が飛んだ。
「熱っ! ちょっと、照れて火を吐かないでください!」
「グルルル!」
「照れてるんですね!」
「グルルルルル!」
とうとうミオは声を上げて笑った。
昨日までの自分なら、こんなふうに笑えただろうか。
婚約者の前で、腹を抱えて笑ったことなど一度もなかった気がする。
聖女らしく。
王太子妃らしく。
いつも誰かの目を気にしていた。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。でも、あなたを怖がるのが少し馬鹿らしくなりました」
子竜は不満そうに鼻を鳴らした。
「これなら町まで連れていけそうですね。荷物にも入りますし」
「グル!」
「冗談です」
笑いながら子竜を抱き上げた。
昨日と同じ大きさだった。
けれど今は、この腕の中にいる存在が二百年を生きる竜王だと知っている。
変な気分だった。
「それで、どうします? 人間に戻れます?」
「キュ……」
「戻れない?」
小さく頷いた。
「では、しばらく待ちましょうか。私も朝食を作ります。昨日の残りでいいですか?」
その瞬間、カエルの尾が元気よく動いた。
「本当に食べ物には正直ですね」
スープを温め直しながら、ミオはふと考えた。
「カエル」
子竜がこちらを見る。
初めて名前で呼んだ。
「あなたの国へ行くかどうか、朝ご飯を食べながら考えます。それから、もし行くとしても条件があります」
金色の瞳が細くなる。
「結婚はしません。少なくとも今は。私はあなたの客人として行きます。それから、自分の仕事は自分で探したい。全部養ってもらうのは嫌です」
子竜が何か言いたそうに口を開く。
「人間の姿に戻ってから反論してください」
閉じた。
「あと、私は聖女扱いされたくありません。特別な人間として祭り上げるのもなしです。料理を作ることはできますけど、それだって毎日あなた専属というのは嫌です」
カエルの耳が動いた。
明らかにそこは不満らしい。
「そんな顔をしても駄目です。私だって自分の人生があります。あなたの呪いを解くためだけに、この先ずっと生きるつもりはありません」
それだけは譲れなかった。
誰かの役に立つためだけの人生は、もう終わりにしたい。
「その代わり」
ミオは鍋を混ぜながら続けた。
「あなたが本当に困っているなら、できる範囲で協力します。昨日助けたのも、そのつもりでしたから」
カエルはじっと彼女を見ていた。
やがて、子竜の姿のまま小さく頷いた。
「交渉成立……なのかな」
ミオは笑った。
「まあ、正式な話は人間の姿に戻ってからですね」
朝食のスープを器へよそった。
カエル用の器を置くと、彼はすぐに近づいてきた。
「待ってください。まだ熱いです」
止まる。
「昨日も言いましたよね」
座る。
「お利口ですね」
カエルの目が細くなる。
「王様相手に言う言葉じゃありませんでしたね。すみません」
それでも、どこか楽しかった。
ミオは自分の器を持ち、岩陰の外を見た。
雪はまだ降っている。
昨日までいた王都とは正反対の、白く何もない世界だった。
これからどこへ行くのかも、本当は分からない。
人間ではない者たちが暮らす国。
昨日まで敵と教えられていた場所。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、不思議と昨日ほど絶望してはいなかった。
「カエル」
子竜がスープから顔を上げる。
「あなたの国って、どんなところですか?」
その問いに答えるように、子竜の黄金の瞳が少しだけ輝いた。
そして朝食を終えた頃。
岩陰の外から、低い獣の唸り声が聞こえた。
一つではない。
二つ。
三つ。
さらに増えていく。
ミオの手が止まった。
「……今の、何ですか」
カエルがゆっくり立ち上がる。
昨日までのかわいらしい子竜とは思えないほど、黄金の瞳が鋭く細められた。
雪の向こうから、巨大な狼の影が一つ、また一つと姿を現す。
黒い毛皮に氷のような青い瞳。
人間の腰ほどもある体高。
十頭どころではない。
「もしかして、さっき言っていた北狼ですか」
「グル」
「こんなに来るなんて聞いてませんよ」
外へ出ようとしたカエルを、ミオは慌てて抱き上げた。
「駄目です! 今のあなた、こんなに小さいでしょう!」
腕の中の竜王が、ひどく不満そうな顔をした。
「強いのは分かっています。でも翼だって怪我してるんです。昨日死にかけていた人が無茶しないでください」
「グルル」
「山を消せるとか言っても駄目です。今は手のひらサイズです」
その瞬間。
雪原に並んだ北狼たちが、一斉に伏せた。
ミオは息を止めた。
襲ってくるのかと思った。
違った。
二十頭を超える巨大な狼が、ミオの腕の中にいる小さな黒竜へ向かい、まるで王へ臣従する騎士のように頭を垂れている。
その群れの奥から、ひときわ大きな白銀の狼が歩み出た。
そしてミオの目の前で、白い光に包まれる。
光が消えたとき、そこには銀髪の若い男が立っていた。
狼の耳と尻尾を残したまま、彼はミオの腕の中のカエルを見て数秒硬直し、それから堪えきれないように腹を抱えた。
「陛下……っ、あなた、またその姿になってるじゃないですか。しかも今度は人間の女に抱っこされてるって、いや駄目だ、これは笑うなってほうが無理ですよ」
カエルの鼻から、凄まじい火花が散った。
「グルルルルルル!」
「痛っ、熱い! 分かりました、笑いません、笑いませんって! だから俺の前髪を燃やさないでください!」
ミオは、腕の中で本気で怒っている小さな竜王と、涙を流して笑っている銀髪の男を交互に見た。
そして思った。
どうやら、自分がこれから向かうかもしれない魔物の国は、人間王国から聞かされていたほど恐ろしい場所ではないのかもしれない。
少なくとも。
退屈する場所では、絶対になさそうだった。
第112話 店を一日まるごと任せたら、私の知らない新メニューが増えていました『ミオの食卓』を一日まるごと店員たちへ任せることになったのは、ミオ自身が言い出したことだった。西方獣人連邦で、自分がいなくても市場の人々が話し合いを続けられる仕組みを見てきた。王都へ戻ってからも、エナたちだけで昼営業を終えられた日があった。店主が不在でも店が壊れないことは、すでに頭では分かっている。だから次は、中途半端に厨房へ顔を出したり、閉店前だけ帳簿を確認したりするのではなく、本当に朝から晩まで店へ行かない日を作ってみようと決めた。決めたのだが。「やっぱり、開店前だけ顔を出したほうがよくないですか?」朝食の席でそう言った瞬間、向かいに座っていたカエルがパンを置いた。「昨日は行かないと言った」「言いました。でも、仕込みの最終確認だけなら仕事を取り上げることにはならないでしょうし、新しい仕入れ先から届く豆の状態も気になります。あと、マルタさんのお子さんの熱は下がったとは聞いてますけど、本人が無理して出てきてないか確認したいし」「それを店へ行くと言う」「十分だけです」「昨日もその話をした」「昨日は十五分って言いました」「今日は短くしただけ」「短くしたんだから進歩でしょう?」「違うと思う」妙に真面目な顔で否定され、ミオは口を閉じた。カエルは以前なら、店へ行かせないために命令するか、もっと露骨に不機嫌になったかもしれない。今はそうではなく、ただ昨日の約束を一つずつ確認してくる。「ミオが決めたんだろう。今日は店を任せるって」「はい」「なら、任せる」「分かってます。でも、任せるのと、何も確認しないのは少し違う気がして」「エナから朝の連絡は来た」
第111話 竜王から届いた最初の手紙は、同じ城の中からでした翌朝、ミオの部屋へ届いた一通の手紙は、差出人の名前を見る前から、誰が書いたものなのか何となく分かった。理由は単純で、封筒の表に書かれた「ミオへ」という文字が、妙に大きかったからだ。王城で使われる公文書なら、宛名はもっと整然としている。ルシアンから届いた私信も、字そのものは軽快だったが、少なくとも封筒の中央に収まっていた。ところが今回のものは、書き慣れていない人が「これくらい大きく書けば間違えないだろう」と判断したらしく、封筒の半分近くを使って堂々と名前が書かれている。朝食前にそれを持ってきた侍女のリュナは、平静な顔を保とうとしていたが、口元がわずかに震えていた。「こちら、カエル陛下よりお預かりしております」「……同じ城にいるのに?」「はい」「カエル、今どこにいるんです?」「東棟の執務室で、朝の報告を受けておられます」「じゃあ、ここまで歩いても十分もかからないですよね」「おそらく」リュナはそこで一度言葉を切り、少しだけ視線を下げた。「ただ、昨夜からかなり真剣に書いておられましたので、受け取って差し上げたほうがよいかと」その言い方に、ミオは封筒とリュナを交互に見た。「昨夜から?」「私は直接見ておりませんが、執務室へ紙を追加で運んだ者が三人おります」「そんなに何を書いたんですか」「最初に用意した便箋を何度も破棄されたそうです」嫌な予感がした。長文の愛の告白が十枚くらい入っているのではないか。それなら、昨夜「どうでもいいことを書けばいい」と言った意味がほとんどない。ミオは少し緊張しながら封を切った。中には便箋が三枚入っていた。
第110話 銀狼王から届いた最初の友達の手紙には、愚痴しか書いてありませんでした地下遺跡の三度目の調査を終えてから二日後、ミオは朝から『ミオの食卓』の厨房に立っていた。正面扉の向こうに何があるのかは気になっていたし、「ここより先、名を持ち込むな」と読める可能性がある碑文についても、頭から完全に追い出せたわけではない。それでも、ザラたちの解析が進むまでは再調査を行わないと決めた以上、ミオにできることは待つことだった。以前なら、待っている時間ほど苦手なものはなかった。自分が動いていないと、何か大事なものを取りこぼしている気がしたからだ。けれど今は、煮込み鍋から立ち上る湯気を見ながら、待つことも一つの選択だと思えるようになっていた。「ミオさん、塩これくらいでいいですか?」厨房の反対側からノアに呼ばれ、ミオは小皿へ取られたスープを味見する。「うん、これで大丈夫です。ただ、今日の根菜は少し甘いから、最後に黒胡椒をほんの少し増やしてもいいかも」「分かりました」「でも全部入れる前に、一杯分だけ試してくださいね」「はい」そこへ、パン籠を運んでいたロッドが口を挟んだ。「昨日のミオさんだったら、自分で全部調整してませんでした?」「昨日っていうほど前じゃないでしょう」「最近、成長の速度が速いから」「またそれ言う」「便利なんですよ」「人を成長観察日記みたいに扱わないでください」ロッドが笑う。エナも客席側から顔を出して、「でも今日はちゃんと任せてますね」と追い打ちをかけてきた。「はいはい。褒めても何も出ませんよ」「褒めてるんじゃなく確認です」「それ、カエルと同じ言い方です」「陛下、最近よく言ってますから」
第109話 私は、怖いからこそ「今日はここまで」と言いました二度目の地下調査から四日後、ザラから「奥へ進める可能性がある」と連絡が入った。あのときミオだけに聞こえた声については、その後も研究院で解析が続けられていたが、意味のある言語として再現することはできなかった。現場へ残した簡易記録器にも、それらしい音声は記録されていない。だからといって、ミオの聞き間違いと片づけることもできず、ザラは「外部音声ではなく、魔力に対する知覚反応だった可能性が少し上がっただけ」と慎重な言い方を崩さなかった。一方、問題の石壁については、前回確認した長方形の継ぎ目が、単なる装飾ではない可能性が高まっていた。「壁そのものが扉になってる?」三度目の調査前会議で、ミオが図面を見ながら尋ねると、ザラは頷いた。「たぶん。ただし、普通の扉みたいに押したり引いたりするものではないわね。壁の端に細い魔力導線らしきものが走ってる。今はほとんど死んでるけど、完全には消えてない」「封印ですか?」アルクが答える。「封印の可能性もありますが、単なる開閉機構かもしれません。古い建築物の場合、『外から入れないようにするもの』と『普段閉じておくための仕組み』は区別して考えたほうがいいでしょう」「開けたら何か出るかもしれない扉と、倉庫の戸では全然違いますからね」「そういうことです」カエルは資料を黙って見ていたが、しばらくしてから口を開いた。「今日は開ける?」その問いに、ザラは少しだけ間を置いた。「開ける可能性はある。ただし、そこまで行って周辺測定に異常がなく、扉に明確な警告術式や封印反応がなければ、という条件つき」「誰が決める?」「私とフィア。あと、森側のセフィアが反対したら中止」「ミオは?」カエルの視線がこちらへ向く。ミオは少しだけ考
第108話 地下で聞こえた声は、私の名前を呼びませんでした最初の地下調査から三日後、ミオたちは再び精霊森林の石段前に集まっていた。その三日間、ザラとアルクは壁面から写し取った古い碑文の解析を進め、人間王国側の古語資料、ヴァルディア旧王朝の文書、精霊に伝わる古い呼称まで片端から照合した。しかし、「二人を一つにするな」「火は火、卓は卓」「門は選ぶのではなく、開かれる」という暫定訳を覆すほどの発見はなく、かといって、それが何を指しているのか説明できる資料も見つからなかった。つまり、三日かけて増えたのは、答えよりも「分からない」という確認だった。「研究って、もっとこう、三日も調べたら一つくらい何か分かるものだと思ってました」石段の前で装備を確認しながらミオが言うと、ザラが嫌そうな顔で振り向いた。「夢見すぎ。三日調べて『最初の推測が雑だった』と分かるだけでも十分成果よ」「今回は?」「最初の推測が雑だったかどうかすら、まだ分からない」「もっと駄目じゃないですか」「駄目じゃない。正確」ザラはそう言いながら、自分の鞄から三枚の紙を取り出した。「一応、現時点で増えた情報はある。まず碑文の文字体系は、人間王国で七百年以上前に使われていた古記号と一部共通する。でも完全一致ではない。次に、王城地下の旧宮殿で使われていた記号とも似ている部分がある。でも、やっぱり完全一致じゃない。最後に、精霊側の古い祭祀標識にも似た形が二つある」「全部、少しずつ似てる?」「そう。だから一番嫌なのよ」アルクが横から静かに補足する。「一つの文明が複数地域へ影響した可能性もありますし、逆に後世の人々が古い記号だけを借用した可能性もあります。単純に似た形へ収束しただけということもあり得ます」「つまり、まだ何でもあり」「かなり乱暴に言えば」「最近、その答え
第107話 地下遺跡の壁には、『二人を一つにするな』と刻まれていました石段を下り始めてすぐ、ミオは地上とは空気の質が違うことに気づいた。冷たい。けれど、冬の外気のように肌を刺す冷たさではない。呼吸をするたび、胸の奥へ薄い水が流れ込んでくるような、形のない冷たさだった。先頭を歩くザラは、数段ごとに足を止めて測定器を確認している。その後ろをセフィア、ミオ、アルクの順に進み、最後尾にフィアとカエルがついていた。普段ならカエルはミオのすぐ横へ来たがるはずなのに、今日は決めた役割どおり、後方警戒に徹している。それだけで、少し安心した。「ミオ、今どう?」ザラが前を向いたまま尋ねた。「少し冷たいです。でも、昨日の石段の前より急に強くなった感じはありません」「身体のどこ?」「胸の奥、というか……説明しづらいんですけど、皮膚が寒いわけではないです」「頭痛は?」「ありません」「吐き気、眩暈、耳鳴り、視界の変化」「全部なしです」ザラは頷き、アルクがそのやり取りを記録する。「じゃあ継続。ただし、違和感が一段でも強くなったらすぐ言って」「はい」その会話を聞いていたカエルが、後ろから低い声で確認した。「本当に平気?」ミオは振り返らずに答える。「今は平気です」「我慢してない?」「してません。もし我慢してたら、ザラにあとで怒られますから」「私にも言って」「もちろんです」少し間があってから、カエルは「分かった」とだけ答えた。言葉数は少ないが、それで十分だった。さらに十数段下りると、土と根に覆われていた部分が終わり、完全な







